魔神の庭にて
Skeb納品物
約11700字
納品日:2022/12/12
Skeb初リクエスト
ファンタジー
©柊コウタ
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©柊コウタ
この国は、魔神に愛されている。
●一章 事変
オルデン王国。
魔物のうろつく険しい山脈に囲まれ、異形の人間が数多く住む広い国である。エレノア――エレオノーラ・ティアラ・ルテナ・オルデンは、荒れた国に平穏をもたらした王の娘として王宮で大切に育てられ、つい先日、十四歳の誕生日を迎え盛大に祝われた。
だが今は。
「陛下、……お父さま、どうかもう魔神を頼るのはおやめください……!」
表情険しく杖に縋って、腹心である近衛兵団長を伴い宮殿の大扉へと歩く父王のマントをそっと掴んでいた。プラチナブロンドの髪を靡かせ、エレノアは震える声で訴える。王は今、禁忌である『二度目の願い事』をすべく、この国に棲む魔神の神殿へ向かわんとしている。それをどうにかして止めたかった。
王は僅かに振り返り、エレノアを見遣る。ややあって、掠れる声を絞り出すようにして答えた。
「何を言い出すかと思えば」
その声には娘の嘆願を断固として聞き入れぬ頑なさがあり、厳しい視線は一層強くなる。『王と王妃、この頂点を失えば、ようやく落ち着き始めたこの国は再び騒乱の坩堝となるだろう』と今しがた語っていた父王がエレノアに言う。
「今頼らずして何のための魔神だ……この国の行く末が掛かっていることもわからんのか」
「しかし、魔神は願いを正しく叶えるとは」
「そうとも、この願いは捻じ曲げられるやもしれん。だがあれ以上に力あるものがあるか。無いだろう。魔神ミスラス、この国を見つめるもの」
「見つめるだけです。あれに頼って身を滅ぼした者は数えきれず」
言われなくとも知っておるわ、と王は腹立たしげにエレノアの言葉を遮り、続けた。
「だがあれで儂はこの国を平らげた。次こそは恒久の平穏を手に入れる」
「いいえ、あれはきっとそれを望みません、お父さま、どうかお体をご自愛なさって、どうかやめて……」
お願いです、と言い募る。こんなに頼み込むのは何年ぶりだろう。いや、子供の頃でも父にここまで食い下がったことは無かったかもしれない。エレノアにとってはそれほどまでに必死の願いだった。
しかし、見下げ果てたぞ、と王は顔を顰め、冷たい眼差しと共に吐き捨てる。
「この身の終わり、この国の終わりを眼前にして、今すべきことが自愛と抜かすか」
「それは」
「国主たる儂に犬死にせよと言うのか、この国の姫たるお前が。恥を知れ」
エレノアが掴んだマントを引き寄せ、ばさりとその手を振り解いた。
「これ以上は娘とて許さぬ。我が前から失せよ、エレオノーラ」
王はそう言い残し、腹心を連れて宮殿を出ていったのだった。
王宮は、王位を妬む者の襲撃を受けた。エレノアの母である王妃は亡き者とされ、王は呪いを受けて余命いくばくも無い。
崩れ往く国を前にして、今できることはそれしか無い。他国は魔物の山脈の向こう遥か遠く、助力を求めるのは困難だった。王妃の死と王の受けた呪いは既に国中に知れ渡りつつある。混乱と騒乱は目前。エレノアも、父王の思いは理解しているつもりだ。自分に力が無いこともわかっている。だから、止めることができなかった。
一人、私室へ戻る。
「お母さま……」
部屋には自分一人きり。母と話をしたかった。だがもう居ない。葬儀らしい葬儀もできていない。
襲撃者は幽鬼だった。異形の者に殺された弱き者。母の姉だった者。幽鬼は妬みから母を呪い、命を奪った。それは父をも呪い、死の淵へ引きずり込もうとしている。家族も、生活も、国も、全て崩れて消えてしまう。
自分には何もできない。力など無い。
エレノアは、魔神の気まぐれが少しでも良いほうへ転がるよう祈ることしかできなかった。ベッドに逃げ込むことしか、できなかった。
私室のドアがノックも無く開いた。
「誰!」
誰何に答えず入ってきたのは、父王に随従して王宮を出たはずの近衛団長、アルド・ベルマンだった。ベルマンは人差し指を立てて静かにと合図する。団長から一抱えもある布包みを渡された。中身は、女中の服。
「お召し替えをしてお逃げください、殿下。陛下がお戻りになります、魔神と共に」
「どういうこと」
「陛下は魔神の翼の下に入れられてしまいました」
命を捧げることで、魔神は禁忌である『二度目の願い事』を許す。そして捧げられた者を食らうか、翼の下に入れる――意志も思考も体の自由をも食らい、生ける屍として手元に置く。父は魔神のもとへ辿り着いてしまった、そして魔神の人形にされ、帰らぬ人となってしまったのだ。
エレノアは報告するベルマンに思わず恨む視線を向け、考えは纏まらぬまま言葉が口を突いて出る。
「あなたはどうしてここに、どうしてあなただけが」
「面目次第もございませぬ……消えろと魔神の指を向けられ、気づいた時には宮殿に……何の役にも立てず……申し開きもできませぬ。しかし、どうかお逃げください殿下。魔神は陛下の他、これまで翼の下へ入れた者を連れてここを居城とするつもりのようでございます」
「なんてこと……」
「ここは魔窟と成り果てましょう。魔神は王宮に居る者を全て翼の下に入れ、国を動かすなどと言っておりました。宮内の者たちにも既に申し伝えてあります。殿下も何卒、今は一刻も早く脱出を」
「わかったわ」
ベッドを降りたエレノアは、父の親友でもあった壮年の団長を振り仰ぐ。
「あなたも来て、ベルマン」
「……よろしいのですか」
微かに震える声へ小さく頷いた。
「あなたを残したら、一人で魔神に斬りかかって殺されてしまいそうだもの」
もう置いていかれるのはごめんだわ、と呟いた。ベルマンが静かにエレノアの前へ膝をつき、首を垂れる。
「陛下をお止めできず、申し訳ございませんでした。拾っていただいたこの命は今この時より私が死ぬまで、エレオノーラ姫殿下へ捧げます」
「……私、姫ではなくなるわ。私には何もできない。どこまでも逃げるだけよ。それでも良ければ、ついてきて」
「はい。このアルド・ベルマン、殿下が如何様な事態に陥ろうとも、身命を賭して御身をお守りします」
●二章 吟遊詩人
町の酒場で、吟遊詩人が小さな竪琴を爪弾いている。透き通るような高い声で歌っているのは、この国の物語。
ここは人間たちが身を寄せ合って過ごす、山奥の静かな国だった。
だが、ある時現れた魔神、ミスラスによって全てが変わる。魔神は国民を気に入り、人々の『願い』を好んで食らい、その願いを、自分の味わった通りに叶えたのだ。
『美貌を』
そう願って見事に美しい容姿を手に入れた者が居た。
『怪力を』
そう願って一度きりの力を発して死んだ者が居た。
『怪力を』
同じ願いを言って、身の丈三倍の怪物となり力を得た者が居た。
力を得た者が力無き者を従え始め、皆こぞって魔神に強い力を願うようになった。
だが、魔神は二度目の願い事をしにきた者があれば滅ぼしてしまう。お前の味はもう要らない、と。それゆえに国民たちは自らその体をさらに強く改造し、さらなる異形と化していった。
国は荒れた。
強き異形が闊歩し、異形に殺された弱き異形は幽鬼となって土地を彷徨った。
ある日、男女が魔神に願った。
男は願う。
『この国の皆が、仲良く楽しく暮らすこと』
女は願う。
『いつかこの国が困った時、皆を助ける優しい英雄が現れること』
魔神は二人の願いを食らい、叶えた。
時の王はその座から下り、男は王に、女は王妃となる。二人の間には娘が生まれ、大切に育ち、国は平穏を手に入れた。
――普段ならここで、竪琴の音と歌声が華やかに祝う曲調となり最後は穏やかに演奏を終える。だが今日は、竪琴がどこか暗い響きを伴って奏で続けた。数日前に起きた事変を吟遊詩人が歌い出す。
歌を聴くまでもなく事変の内容を知っている二人組が、店の外で視線を交わした。フードを被った少女エレノアと、主従関係を隠しエレノアの保護者として振舞うベルマンである。エレノアは、別の店でも似たような歌を吟じる者が居たことを思い出し、呟く。
「王宮からこんなに離れてるのに、もうあんな細かく知られてるなんて」
「市井とはそういうものだ」
襟巻で首から口元までを隠したベルマンが促し、二人は歩き出す。
魔神が王宮を占拠して数日。エレノアの身分が知れてしまえば国内に安全な場所は無い。二人は国を出るため徒歩の旅を続け、王都を出て、三つの大きな街を越え、郊外の町を歩いていた。
「あの」
不意に背後から女の声が掛かった。用があるのでと俯きながら断り、背を向ける二人。けれども追いすがられる。
「待ってエレオノーラ、様」
呼ばれ、エレノアは驚いて足を止めた。取って付けたような敬称がどこか奇妙に感じられる。振り向きかけたがすぐ、警戒の色を襟巻の下に隠したベルマンがエレノアの前に立ち、何も見えなくなった。
「人違いだろう。誰か知らんが去れ、先を急ぐ……」
ベルマンが息を呑み、言葉が止まった。何事かとベルマンの影から様子を窺うと、エレノアの目に飛び込んできたのは懐かしい母の面影。大きな背の後ろで女の顔を見つめる。もちろんそれは他人の空似に違いなく、死んでしまった母本人ではない。髪の色も声も違う。別人だ。
明るい空の色を映して流れる川のような青い髪に花飾りを着け、ゆったりと長い異国風の衣を身に纏った踊り子のような姿の女は、少し変わった形のほっそりとしたリュートを持っていた。
「吟遊詩人のユミニアと申します。一人旅は心許なく……事情がおありかと存じますが、どうか、途中まででもお供させていただけませんでしょうか」
その言葉にエレノアは目の前の服をそっと引く。ベルマンがエレノアをちらと振り向いた。
「あの人と少し、話をしたい」
見上げて小さな声で言う。ベルマンは一拍考えるそぶりを見せてから、女に向き直った。
「……場所を変える。来い」
町を出て街道を行く三人は、人目を避けて森に入る。少し開けた場所に大きな倒木があり、まだ歩き慣れぬエレノアがへとへとになりながらそこへ座った。
エレノアは吟遊詩人ユミニアに問う。
「あなたはどこかへ行くところ?」
「いいえ、行く当てはありません。街から街へ、渡り歩いて日銭を稼ぐのが身上です」
「そう……ねえ、さっきどうして王女……様の名前を呼んだの?」
「一度、演奏家として王宮でお仕事をさせていただいたことが。その時に拝謁した王女様とよく似てらして……」
「……それ、私よ」
ユミニアはああやっぱりという顔をして、ベルマンは瞠目してエレノアを見た。身分を隠して国を出ると決めたはずでは、と言いたいのであろう眼差しに少したじろぎながら、しかしエレノアはユミニアに言う。
「旅の仲間が増えるのは私も心強いわ。一緒に来てほしい」
「……殿下」
ぼそりと口を挟むベルマンにエレノアは言う。「もう一人くらい居たほうが身を隠しやすいってあなたも言ってたでしょ」
「それは確かに、申し上げましたが」
「ね。だから私からもお願いするわ。一緒に来て」
どうせ、長い長い旅になるのだ。話し相手も欲しかった。ベルマンはどうしても自分に遠慮する。ユミニアのように物怖じせず話しかけてくれるのは単純に嬉しかった。
ユミニアがおずおずと尋ねる。
「そ、その、こちらからお願いしておいてなんですが、本当に良いのですか」
「素性の知れぬ者を連れて行く、ということになりますからな」
ユミニアの言葉を継ぐのはベルマン。声が不満げなのは警戒心ゆえだろう。そんな従者にエレノアは、ユミニアと聖なる誓約を交わして禍根を断つことを提案。渋々頷いたベルマンが誓約内容の精査を願い出て、それを許す。従者が誓約に含めるべき内容を確認している間、エレノアはユミニアに旅の目的を伝えることにした。
「国を出たいの」
「出る? 王都へ向かうのではなく?」
「戻らないわ。……戻れない。私には何もできないもの」
「でも」
「私は、お母さまを助けられなかった。お父さまを止められなかった。なのに魔神のところへ行って、何かできるとは思えない」
「……何かできたら良いのに、とはお思いに?」
「当たり前でしょ!」
思わず大きな声が出てしまった。震える息。自分にできることならば、全てを取り返したい。それができないから逃げてきたのだ。
「では、私がお手伝いいたします」
「なにを」
「その日暮らしの吟遊詩人、ではございますが。知識、という面においては少々自信があるのです」
知識って、と尋ねかけたところでベルマンが話に割って入った。
「貴様、殿下に何を吹き込む気だ」
ユミニアは静かに答える。
「殿下の望むものを。知識は力と申します。文字通り、殿下のお力になりましょう」
「何のために。暇潰しなら他を当たれ」
エレノアに守護を誓った従者の強い視線が、吟遊詩人を射た。吟遊詩人はそれを淡々と受け止め、言う。
「理由は二つ、そのうちの一つは『私の知識欲を満たすため』。これは暇潰しと思われても仕方ないやもしれませんね。もう一つは、殿下のお母上からの頼みです」
「お母さまの……?」
市井で生きる吟遊詩人に、なぜ母が。いつ。エレノアが疑問の眼差しを向けた。
ユミニアによれば、王妃は幽鬼の呪いを受けて身罷った際、王妃自身も幽鬼のような存在になってしまったらしい。肉体は死に、魂だけが彷徨い出た。風が吹けば消えてしまいそうなほど不安定な状態で、姿は誰にも見えず、王宮に留まることもままならず、街を漂っていたという。広場で偶然、見覚えのある吟遊詩人ユミニアを見つけ、話をしたのだとユミニアは語った。
「王妃様は、エレオノーラ様を見守り、助けたいと仰せでした。『娘に会えたら母である証として』……その、『娘を隣に座らせて親指を握らせよと仰っていたのですが……」
「指を?」
「はい。あ、断じて害意はございません。魔術的な儀式などとも無関係です。旅と歌の神に誓って」
慌てて誓いの印を切ったユミニア。振った指先に祝福の光が宿る。
エレノアはベルマンを見た。従者が頷いたのを確認し、差し出されるユミニアの親指を握る。するとユミニアは手のひらと残る指でエレノアの手を覆うように握り返し、小指だけ離してエレノアの手首にひっかけ、言った。
「『さ、今日は一緒におでかけよ』」
母の声を聞いた気がした。その言葉は確かに、エレノアに向けられた母の言葉だった。幼い頃、普段忙しい母との外出は特別に楽しかった。必ずこうして手を繋ぎ、この言葉を聞いた。
鼻の奥がつんとして、唇を噛み締める。視界が滲み、こらえられなかった涙が目尻から溢れ、ぽとぽとと地面に落ちた。
「あ、え、エレオノーラ様……!?」
慌てふためくユミニア。だがエレノアは俯いたままその手を繋いで離せなかった。オルデン王家を昔から知るベルマンは、何も言わず傍らに立っていてくれた。
少ししてようやく、空いている手で顔を拭う。鼻を啜り、顔を上げる。
「泣いてしまって、ごめんなさい。あなたの言葉は確かに母のものよ。伝えてくれてありがとう」
エレノアは微笑んでユミニアと手を繋いだまま、ねえベルマン、と振り返った。
「私、この人にいろいろ教わりたい。たくさん学んで……王宮へ行きたい」
自分には力が無い。『何ができるのか』『何があるのか』がわからない。それらを知ることができれば、そしてこの吟遊詩人が母の遺志と共に見守ってくれるのならば、あるいは。――そんなふうに思えた。
ベルマンはどう思うだろうか。無理だと言うだろうか。
「どの程度の知識か、それ次第でしょうな」
低い声に、否定の色は薄かった。どういう意味、と問えば冷静な答えが返ってくる。
「道々、私がお教えできることは何でもお教えするつもりでした。この者が私より広く深い知識を持っているとすれば、その役目を任せることに異論はございません」
「本当!?」
「嘘を申してどうします。しかし、すぐさま王都へ向かうといったご要請は承服しかねます。支度というものがございますれば」
「ええ、わかった」
ユミニアと問答をしたいというベルマンの申し出を許可し、エレノアは少し惜しく思いながらユミニアの手を離した。
魔神や魔法に関する知識、国の成り立ち、諸外国との交易、国内外の行儀作法、国内の商業文化、産業、山脈に棲む魔物の生態、市井の風俗、各地の土着信仰、様々な状況における戦術。
かつて王と共に長く旅し、後にオルデン王家の近衛兵団長となったベルマンが持つ知識は実に幅広く多岐に渡り、横で聞いているエレノアには全くわからない話も多かった。しかしユミニアは、ベルマンが投げかける全ての問いに、淀みなく答え続ける。
そして。
「……恐れ入った。貴方の見識の広さと深さは、間違いなく私のそれを上回る」
微かに笑んで、ベルマンは降参の意を示した。ユミニアが深く礼を取る。
「殿下の力になっていただけるか」
「はい、是非。それでその……殿下の旅の行き先ですけれども」
ユミニアの言葉にエレノアは再びベルマンを見た。
「すぐには行けない、のよね」
「あの魔神と対峙するならば、それ相応の準備が要りますので」
「でもいつかは行ける?」
「一両日中に、とは参りませんが。……半年です。その間に、可能な限りの支度を整えましょう」
こうして、エレノアとユミニアの間に魔法を介した聖なる誓約が取り交わされ、吟遊詩人ユミニアは新たな旅の仲間となったのだった。
●三章 半年
吟遊詩人ユミニアを仲間に加え、エレノアは『アルテナ』、ベルマンは『ダルグ』と偽名を名乗って半年を過ごすこととなった。
その間、エレノア――アルテナは、惜しむことなく長かった髪を切り、新しい力を手に入れるのだと意気込んで数多の知識を吸収していく。
アルテナが嗜む聖魔術の基礎技術をユミニアの知識で押し拡げ、一瞬で多数の者へ影響を与える技や、強い癒しや浄化の力の引き出し方を体得。病、怪我、その他異常状態に関する知識を学び、聖魔法の力を精緻なものとしていった。
また、ベルマン改めダルグから学ぶことも多々あった。特に彼が持つ体術、剣術は国内随一。基礎体力を付けながら、様々な身のこなし、武器の扱いを、アルテナは自分の体に叩き込んだ。戦術もまた然り。多種多様な状況下での戦い方、そして人の心の読み取り方なども学んだ。
五日に一度は三人で山脈の魔物狩りにも挑んだ。魔物の体から得られる希少な素材や汎用性の高い素材を集め、国境となっている山脈の向こう、隣国の郊外の町で売り、日々の食い扶持を稼ぐ。その流れで町の医者と知り合い、アルテナは病人や怪我人の治療を手伝って、聖魔法の経験を積むこともできた。
ユミニアはアルテナに付き添って町の人々の心を掴み、信用を得るための手伝いをする。その間にダルグは鍛冶屋にアルテナのための鎧と剣を注文し、自身の装具も整える。
一日も無駄にしない、そんなつもりで三人は日々を過ごした。
三人で過ごす中、時折オルデン王国の噂を聞いた。故国は、とても静かに退廃が進んでいるようだった。魔神は王宮を支配したが国を支える人々をすぐには傀儡にせず、しかし恐怖で縛り上げて逃がすこともせず、国を少しずつ少しずつ蝕んでいる、と。
国民は、一応は動いている国内の機関に対して不安を抱えながらも、生活を続けている様子。
「みんななんで逃げないのかしら」
アルテナの疑問に、ユミニアが答える。
「家や土地を捨てられないのでしょう。決定的な危険が見えない以上は動けないものです。見えてもなお動きたがらない者も居ます。それに、一般市民が家財を抱えて山脈を超えるには、かなりの戦力や資金が必要ですからね。逃げた先で生活していけるかわからない以上、動けない」
「そう……」
かつて魔神に願って力を手に入れた者たちは、『国に平和を』という王の願いが叶ったことでその力の大半を失っている。何かと戦う能力を持つ者は今のオルデン王国にはほとんど居ない。
その話を聞いて、ふと思う。
「お父さまの願い事の力は、まだ有効なの?」
「そのようです。魔神は陛下のお命を奪ってはいません。それゆえに、でしょう」
「もしかして、ダルグの剣もオルデン国内ではあまり発揮できない、とか……?」
「ご名答です。近衛兵団長として過ごす間、陛下の守護以外のいかなる場合においても、私の剣は実に鈍重となりました。殿下の出国に反対しなかった理由の一つでもあります」
「け、剣の練習、意味無かったということ……!?」
「いいえ」
「だってダルグあなた今……!」
「剣とは攻撃するためだけにあるのではございません。それはお教えしたはず」
淡々と返された言葉にアルテナは目を見開き、口を噤む。そうだった、繰り返し繰り返し、言われていた。
「……剣は人を害すためでなく、人を守るために使うべし」
「その通り」
短く答えたダルグの横で、ふふ、とユミニアが笑った。
「アルテナ様の視野がまた一つ広くなりましたね」
「最初に教えてくれたら良かったのに」
そんな大事な話、と少し除け者にされた気分で呟くと、ユミニアがダルグに言った。
「近衛兵団では『型』のお稽古が主軸と聞いたことが。それも『王の願い事』のため?」
「然り」
「なるほどねぇ」
したり顔の吟遊詩人の袖を引くアルテナ。
「何が『なるほど』なの」
「きっとそこの団長さんはね、あなたに伸び伸びと剣術を学んでほしかったのだと思いますよ」
にこ、と微笑んだユミニア。伸び伸びととは一体、と思ってから、二人の言葉を反芻する。ユミニアのゆったりと長い袖を摘まんだまま、少し考え、ああ、と思い至る。アルテナはダルグに尋ねた。
「意味が無いかもって思いながら型ばかり練習するのは……大変だった?」
どこかきまり悪そうに目を逸らして頷く、元近衛兵団長。
「……はい。とても。私自身がそうでしたし、それと同じかそれ以上に団員達のやる気の維持にも難儀しました」
「つまり、アルテナ様が元気良く学べるようにと思って内緒にしてたのよね?」
「ユミニア……人の考えを詳らかに暴くな」
楽しそうなユミニアにダルグが苦虫を噛み潰したような顔をする。あら、とユミニアが自分の口に手を当てた。
「アルテナ様の憂いを晴らすためよ。決して、けーーーっして、私が楽しいからとかじゃないわ」
「旅と歌の神に誓えるか」
「それはちょっと難しいわね」
仏頂面のダルグから、すっとぼけ顔で目を逸らすユミニア。アルテナはそんな大人達のやりとりが楽しくて、ぷふ、と思わず噴き出してしまった。しばらく、笑いが止まらない。楽しい。幸せだ。優しい二人。不意に亡き両親の温もりを思い出し、溢れてしまった涙を笑い涙だと言い訳しながら拭う。
不穏と隣り合わせでありながらも、かけがえのない、大切な時間だった。
●四章 玉座の間
王宮で事変が起きて、半年が経過した。
正門前に立つ兵達にはほとんど意識が無く、門も開いたまま。三人は誰にも止められることなく宮殿へ入った。
宮殿の庭園を歩く庭師から誰何を受けることも、宮殿の扉を開ける衛兵から用件を尋ねられることも、全く無い。人が居ないのかと思うほど、宮殿内は静かだった。
そして三人は玉座の間へと辿り着く。
玉座に座っているのは、アルテナ――エレノアの父、オルデン王。間違いなく生きてそこに居る。目も開いている。けれども、その目には何も映していなかった。隣には誰も座していないもう一つの玉座がある。かつてエレノアの母が座していた場所だった。
魔神は、オルデン王の後ろに居た。玉座の間の天井まで届く、炎を纏った巨大な魔神。背には無数の炎の翼を持ち、その翼には無数の目が付いている。炎は明るく、エレノアの銀の鎧を煌めかせた。
エレノアは呻く。
「魔神ミスラス、この国を見つめるもの……」
『願いを持つならば、言うが良い』
ゴウ、と炎が唸るような声が玉座の間に響いた。
エレノアは答えない。代わりに剣を抜き、掲げた。口にしたのは願い事ではなく、呪文。天地神明に届け、と祈りを込めて、聖なる言葉を淡々と紡ぐ。魔神は動かず、それを聞いていた。
エレノアの言葉が終わると同時に、エレノア、ユミニア、ベルマンの全身を白く淡い光が一瞬覆って、消える。玉座の間の外、宮殿内に騒めきが生まれた。ユミニアが呟く。
「上手くいったみたいね」
止まっていた時間が再び流れ始めたかのように、人々の声が聞こえだす。エレノアが唱えたのは、ユミニアと二人で編み出した、魔神の『操り糸』を防ぐ呪文だった。
だが玉座のオルデン王に変化は無い。魔神に命を捧げてしまった時点で、王の全ては魔神ミスラスの所有物となってしまっていた。それも二人は予測済みで、エレノアは一瞬目を伏せ、再び視線を上げた。
魔神を滅ぼすことはほぼ不可能だろう、というのが一行の見解だ。魔力で敵うはずもない。
追い払うか、封ずるか。できそうなのはその二つ。歴史を紐解くに、魔神はこの国に執着しているのは明白だった。そのため一番叶えられそうなのは後者の封印であろうと目して、一行はここまで来た。
魔神ミスラスは、どことなく、興味深げな表情だった。人間とは全く別の存在、魔神。その表情が人間と同じような意味を持つかどうかはわからないものの、この国で人間を見つめ続けてきたミスラスが多少は人間に似る、ということは有り得るのでは、とユミニアが語っていた。
ミスラスはゆらりと手を伸べ、何かを引き寄せるような仕草をする。玉座の間の扉が開き、入ってきたのは異形の者たち。かつて、命を捧げて二度目の願い事をし、ミスラスの翼の下へ入れられてしまった国民たちである。
ベルマンが剣を構え、エレノアもそれに倣う。
「う……!」
突如、手の中の剣が途轍もなく重くなって取り落としかけた。これがベルマンの言っていた現象か。ベルマンはといえば慣れたもので、表情も体勢も微動だにしていない。エレノアも剣を握り直し、構えを変える。
異形の者たちが、三人に襲い掛かってきた。
異形とはいえ、人間に剣を向けるのは恐ろしかった。敵は殺せなくていい、戦力を削げ、とベルマンからは言われている。武器の奪い方、拘束の仕方なども習った。重量を逆手に取った動きで剣を叩きつけ、異形の者達の手首や腕を狙い、ユミニアを背に守りながら、二人は戦う。
ユミニアは戦闘ができない。けれど、ベルマンはこの場に並ぶことをユミニアに許可した。その理由をエレノアは聞いていない。ただ、できることがあるから、とユミニアは言い、ベルマンがその内容を知っているのは明白で、エレノアは二人を信じて戦うことを承諾したのだった。
ユミニアがリュートの音と共に異国の言葉を紡ぎ始めた。剣を振り、背中でそれを聞きながら、エレノアはどこか懐かしい気持ちを感じる。子供の頃、母が物語を読み聞かせてくれた時のような心地がしていた。ユミニアが何と言っているのか、全くわからないのに、なぜかそんな気がしたのだ。
その『物語』が終わる頃、玉座の間は静まり返っていた。
魔神ミスラスが声を発する。
『■■■』
「では、ここへ」
エレノアには魔神の言葉の意味がわからなかったが、ユミニアは理解したようで穏やかにリュートを差し出す。リュートには聖魔法で封印式が刻まれており、魔神をそこへ呼ぶ手筈となっていた。
『■■■■■■■■■■■■■』
「あら、熱烈なお誘い。構わないどころか歓迎だけど、その前にやることがあるわね。……エレノア」
その呼び方を訝しく思いながらエレノアがユミニアを振り返ると、そこに立っていたのは、紛れもなくエレノアの母の顔をした吟遊詩人だった。
「え、どういう、こと」
「ずっと、ユミニアの体に住まわせてもらっていたの。エレノア……一人にして、ごめんね。私は、あの人が正しく死ねるよう道案内をしに行くわ。魔神も、ユミニアがなんとかしてくれる」
「お母さま……待って、お母さま」
「本当に、ごめんね。後を頼みます、大好きなエレノア、我が娘」
ユミニアの体から、風が吹き出して玉座へ向かう。魔神の炎に照らされて浮き上がったのはオルデン王をそっと抱きしめる王妃の姿。二人が頬を合わせると、空虚を見つめていたオルデン王の目が静かに閉じ、王妃の影もまた、消えた。
ユミニアが言った。
「エレノア様、私からもごめんなさい。私の願いはね、魔神と語り尽くすこと、話の種が尽きたら、魔神と新たな物語を作ること。私の願いを、自分で叶えてきます」
吟遊詩人は最後に何事か呪文を唱え、魔神と共にリュートの中へと消えていった。
●終章 魔神の庭にて
「なんとなく、そんな気はしてたけど」
魔神の話をするとき、あの吟遊詩人はいつも楽しそうで、どこか恋い焦がれているかのようだった。だから、勝手な人ね、と思いながらエレノアは見送った。
「でも、寂しい」
「……そうですね」
「あら、素直じゃない」
「それは……半年も連れ添った仲間ですので」
「連れ合いになりたかった?」
「……ええ、まぁ」
「置いてかれちゃったな」
「やることは多いですよ」
「そうね。一緒に来てくれる?」
「嫌だと言っても面倒を見させていただきます」
「ふふ、心強いわ」
魔神に愛された国で、一つの時代が終わった瞬間。
新しい時代が、幕を開ける。